どれほど尊い 教えであって も、人から人へ 時代を超えて伝 えられる中で、 その受け止め方 に違いが生じる ことがありま す。親鸞聖人が お説きくださっ たお念仏のみ教 えも例外ではあ りませんでし た。蓮如上人は 『御文章』二帖 目十一通(『浄 土真宗聖典註釈 版』一一二六 頁)において、 当時広まってい た誤った理解を 取り上げなが ら、他力信心の 由来をあらため て明らかにして くださっています。 親鸞聖人がお示しくださっ たのは、お念仏のみ教えに出 遇い、阿弥陀仏をただ一つの 拠りどころとして、他力の信 心をいただくことです。とこ ろが、その信心の意味を正し く受けとめることなく、「阿 弥陀仏は、十劫の昔に仏とな られたその時から、私たちの 往生をすでに定めてくださっ ている。そのことを忘れない でいることが信心である」と 説く人が現れました。これで は、阿弥陀仏に帰命する他力 の信心をいただいたことには なりません。 また、善知識についても誤 った理解がありました。「善 知識に出遇わなければ往生は かなわないのだから、まずは 善知識だけを頼りとすべきで ある」と説く人もいたので す。しかし蓮如上人は、それ もまた浄土真宗の信心を正し く理解していない考え方であ ると厳しく戒められていま す。 こうした誤った理解を正す ために、蓮如上人は「五重の 義」を示されます。すなわ ち、宿善・善知識・光明・信 心・名号の五つです。この五 重の義は、人が自らの知識や 努力によって信心を得るので はなく、宿善が熟して善知識 に出遇い、その導きによって 阿弥陀仏の本願を聞き、阿弥 陀仏の光明のはたらきによっ て他力の信心をいただくとい う、信心成立の由来を明らか にしたものです。そして、そ 6月日、美輪明 宏さんが歳で亡 くなった。歌手、俳 優、演出家として華 やかな舞台に立つ 一方、テレビや講 演、著作を通じ、人間の尊 厳や愛、平和、美とは何か を問い続けた。その足跡は 芸能界の枠には収まらない ▼長崎で被爆し、貧困も経 験した。だが、苦難を恨み として語らず、他者への思 いやりへと昇華した。戦火 を知る人の言葉には、平和 を観念で終わらせず、日々 の振る舞いとして守り抜こ うとする切実な願いが強く 宿っていた。重労働に耐え る母への感謝を歌った「ヨ イトマケの唄」は、その精 神を象徴する。家族の絆と 働く人の尊厳を描いた歌 は、今も世代を超えて胸を 打つ▼性別や外見への固定 観念が強い時代から、個性 を隠さず、世間に迎合しな い姿を貫いた。自分らしく 生きる勇気を示した歩み は、社会が多様性を受け入 れる土壌を育てる力にもな った▼発言や人生観には賛 否もあった。それでも人々 に「どう生きるか」を考え させ続けた意義は大きい。 芸術は答えを押しつけるの ではなく、心に問いを残す ものだ。その信念を生涯体 現した▼価値観が多様化 し、分断が深まる今こそ、 美輪さんが説いた愛、美、 品格、思いやりを見つめ直 したい。人間らしく生きる とは何か。一人ひとりにそ の問いを託したことが、何 より大きな遺産ではないか。 の信心をいただいた者は、お のずから「南無阿弥陀仏」と 称える身となります。 つまり、信心は私たちが自 らつくり出すものではありま せん。善知識を通して阿弥陀 仏のご本願を聞き、その光明 に摂め取られることによって 恵まれるものです。蓮如上人 は、この五重の義によって他 力信心の由来を明らかにし、 「十劫秘事」や「善知識だの み」といった誤った見解を正 されたのです。 この御文章が書かれたの は、蓮如上人が吉崎におられ た頃です。それだけ吉崎に も、教えを誤って受け止める 人々が少なくなかったことが うかがえます。しかし蓮如上 人は、そのような人々をただ 戒めるためではなく、誰もが 阿弥陀仏のご本願を正しく聞 き、真実の他力信心をいただ いてほしいとの願いから、こ の御文章を著されたのでしょ う。 では、善知識とはどのよう な存在なのでしょうか。蓮如 上人は「善知識とは、阿弥陀 仏に帰命せよという『つか ひ』である」とお示しになり ます。善知識とは、阿弥陀仏 のご本願をありのままに伝 え、私たちを阿弥陀仏へと導 いてくださる存在です。言い 換えれば、私たちと阿弥陀仏 とを結ぶ媒介者、あるいは案 内人と言えるでしょう。自ら のはからいによってご本願を 正しく受け止めることのでき ない私たちにとって、善知識 との出遇いは、阿弥陀仏から 賜ったかけがえのないご縁な のです。 親鸞聖人にとって、その善 知識は法然聖人でした。親鸞 聖人は法然聖人との出遇いに よって、阿弥陀仏のご本願を 正しくいただかれました。し かし、『歎異抄』には「よき ひとの仰せをかぶりて信ず る」(『浄土真宗聖典註釈版』 八三二頁)と記されており、 「よきひとを信ずる」とは書 かれていません。「よきひ と」とは法然聖人ですが、信 ずる対象は法然聖人その人で はなく、法然聖人を通して示 された阿弥陀仏のご本願で す。「仰せ」(ご本願)をあり のままに受け止めることがで きたのは、「よきひと」のお 導きがあったからにほかなり ません。 善知識は、私たちを阿弥陀 仏のもとへ導いてくださる尊 い存在です。しかし、善知識 はあくまでも阿弥陀仏のご本 願を伝える「つかひ」であっ て、救いの主体ではありませ ん。私たちが真に拠りどころ とすべきは、阿弥陀仏のご本 願です。そのことを決して取 り違えてはならないと、蓮如 上人は、この御文章を通し て、他力信心はどこから恵ま れるのかを、あらためて私た ちにお示しくださっているの です。 教えが伝わる ということ 他力信心の 由来 善知識とは 真に拠りどころ とすべきお方 20 91 本コーナーでは、夕べの講座の内容 に沿って、本願寺第8代宗主蓮如上人 が、ご門徒の方々に浄土真宗のみ教え を正しく伝えるために著された『御文 章』の内容を味わわせていただきまし ょう。 栴 檀 第9回 阿弥陀仏のご本願を正しく聞く ー「五重の義」に明かされる他力信心の由来ー ⑹ 2026(令和8)年8月5日 名 古 屋 西 別 院 (第195号)
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